その経験によって、あなたの何が変わりましたか?
- 全国大会に出た。
- 自己ベストを更新した。
- 思うような結果が出なかった。
- ケガをした。
- 厳しいトレーニングをやり切った。
スポーツを続けていると、さまざまな経験をします。
そして、そんな出来事を振り返って、
「いい経験になった」
「あの失敗から学んだ」
「この経験を次に生かしたい」
と話すことがあります。
私自身も、何度となく使ってきた言葉です。
でも、少し立ち止まって考えてみたいことがあります。
経験したことと、学んだことは、本当に同じなのでしょうか。
大会に出たこと。
負けたこと。
厳しい練習をしたこと。
それ自体が、自動的に「学び」になるわけではないように思います。
では、何をもって「学んだ」と言えるのでしょうか。
もちろん、「学び」には知識や技能の習得など、さまざまな捉え方があります。そのうえで、この記事では学びをこう捉えてみたいと思います。
学びとは、経験や知識によって、物事の見え方・捉え方が変わること。
そして、その見え方の変化が、やがて次の判断や行動につながっていく。
この記事では、そんな「学び」について考えてみます。
経験は、学びの「材料」になる
最初に、誤解のないようにしておきたいことがあります。
経験そのものに意味がない、と言いたいわけではありません。
むしろ、経験は学びの大切な材料です。
- 実際に大会へ出てみる。
- 自分より高いレベルの競技者と競ってみる。
- 練習方法を変えてみる。
- 成功したり、失敗したりする。
- 思っていた通りになる。
- 予想もしなかったことが起きる。
そうした経験があるからこそ、自分の中に考えるための材料が生まれます。
問題は、その材料をどう扱うかです。
「やった」「終わった」だけでは、経験は通り過ぎていく
例えば、大切な試合で負けたとします。
「悔しかった。でも、いい経験になった。次は頑張ろう」
そう言って、翌日からまた練習を始める。
もちろん、それが悪いわけではありません。
気持ちを切り替えて次へ進むことが必要な場面もあります。
でも、なぜ負けたのか、試合中に何が起きていたのか。自分は何を考えていたのか。
試合前の準備はどうだったのか。普段の練習と本番では、何が違っていたのか。
そこに目を向けないままであれば、「負けた」という出来事が一つ増えただけで終わってしまうこともあります。
経験した回数と、学んだ量は、必ずしも同じではありません。
たくさん大会に出たから、必ず競技を見る目が深まるわけではない。
長く競技を続けたから、必ず自分のことを理解できるわけでもない。
経験は、それだけで人を成長させてくれる魔法のようなものではないのだと思います。
経験を、いったん振り返ってみる
経験を学びにつなげるために、一つのきっかけになるのが「振り返ること」です。
ここでいう振り返りは、「反省会をする」という意味だけではありません。
悪かったところを探し、自分を責めることでもありません。
経験したことを、もう一度少し違った位置から見てみる。
そんなイメージです。
まず、「何が起きたのか」を見る
最初は、できるだけ事実を見る。
例えば100mのレースなら、
- スタートで隣の競技者に出られた。
- 40m付近では差が縮まった。
- 後半で再び離された。
- タイムは11秒40だった。
こうしたものは、比較的確認しやすい事実です。
一方で、
「自分はスタートが下手だ」
「自分は後半が弱い」
という言葉は、事実そのものではなく、自分なりの解釈が入っています。
この二つを一度分けてみると、それだけでも経験の見え方は少し変わります。
次に、「なぜそうなったのか」を考える
事実を見たら、次に「なぜこうなったのだろう」と考えてみます。
例えば、「自分は後半が弱いから負けた」と思っていた。
しかし、映像を見返すと、前半でいつも以上に力んでいる。
指導者と話してみると「前半で力を使いすぎたことで、結果として後半が落ちたのではないか」という別の見方が出てきた。
すると、
「自分は後半が弱い」
という認識が、
「前半の走り方にも原因があるかもしれない」
へと変わります。
レースの結果そのものは変わっていません。
11秒40というタイムも変わらない。
それでも、その経験に対する自分の見え方は変わっています。
私は、ここに「学び」があるのだと思います。
同じような出来事でも、意味づけは変わる
一つの経験に、一つだけの意味が最初から決まっているわけでもありません。
例えば、二人の競技者が同じ大会で負けたとします。
一人は、「自分には才能がない」と受け取るかもしれません。
もう一人は、「今までの準備方法では、本番で力を発揮しきれないのかもしれない」と考えるかもしれない。
あるいは、「負けたけれど、半年前より差は縮まった。今の方向性は間違っていないのかもしれない」と捉える人もいるでしょう。
起きた出来事は似ていても、そこから何を見るかは違います。
そして、その意味づけが違えば、その後に選ぶ行動も変わっていきます。
失敗した経験=悪い経験ではない
「経験から学ぶ」というと、失敗を振り返るイメージが強いかもしれません。
でも、私は成功したときも同じだと思っています。
「やった。うまくいった」で終わらせることもできます。
しかし、
- なぜ今日はうまくいったのだろう。
- いつもと何が違ったのだろう。
- 試合前の準備はどうだっただろう。
- レース中には、どんな感覚があっただろう。
と振り返ってみると、次にも生かせるものが見つかるかもしれません。
振り返りは、悪かった原因を探すためだけのものではありません。
うまくいった経験からも、自分のことを知ることができます。
学びは、「見え方が変わる」ところから始まる
私自身、「学び」という言葉について考えるきっかけになった一冊があります。
山口周氏の著書『人生の経営戦略』です。
同書では、学習を単に新しい知識やスキルを追加することとしてではなく、経験を通じて自分の信条や習慣、思考のあり方が変化し、同じものを見ても以前とは異なる反応ができるようになることとして論じています。また、その変化を「自分という認知システム」の変容として捉え、世界の見え方そのものが変わることに踏み込んで説明しています。
参考:山口周『人生の経営戦略――自分の人生を自分で考えて生きるための戦略コンセプト20』ダイヤモンド社、2025年、pp.274–276
この部分を読んだとき、私自身、とても腑に落ちるものがありました。
WILLINQで言うなら、
学びとは、経験や知識を通じて、物事の見え方・捉え方——つまり「認知」が変わること。
と捉えたいと思います。
この記事では「認知」を、自分が目の前の出来事をどう見て、どう意味づけているかという、その「見方」の意味で使います。
私自身の「負けた」という経験の見え方が変わったとき
高校3年生の夏、地方選手権に出場したときのことを今でもよく覚えています。
予選はかなり余裕を持って走ったにもかかわらず、自己ベストに近い記録が出ました。
決勝で同じくらいの記録を出すことができれば、優勝を狙える状況でした。実際、結果だけを見れば、予選と同じタイムで走れていれば優勝できていました。
ところが決勝では、明らかに力みました。走りのペースも乱れ、タイムは中学生のころの自己ベストとほとんど変わらないものになりました。
結果は5位。レースが終わったあと、私はかなり泣きました。
高校3年生の私は、それ以前にも大きな敗戦を経験しています。
インターハイにつながるブロック総体では7位となり、全国大会への出場を逃しました。
しかし、そのときは不思議なくらい涙が出ませんでした。
むしろ、「これでようやく終わった」と、少し安堵していたようにすら思います。
では、なぜ地方選手権の5位では、あれほど悔しかったのか。
振り返ると、私は「負けたこと」そのものに泣いていたのではありません。
勝てる可能性があったのに、勝つための準備を自分がしていなかったことが悔しかったのです。
当時の私は、負けることをとても怖がっていました。
「たぶん勝てない」
「負けるとしたら、こんな感じだろう」
そんなことを事前に考えながら練習や試合に臨むことがありました。
今振り返れば、傷つかないための予防線でした。
本気で「勝ちたい」と思って、負けたら傷つく。
だから、最初から「どうせ勝てない」と思っておけば、自分を守れる。
地方選手権での「負け」は、そんな自分の姿を突きつけられた経験だったのだと思います。
私はチャンピオンスポーツとして陸上競技に取り組み、速くなることを目指していたはずでした。
本当は、もっと速くなりたい。勝ちたい。陸上競技が好きだ。
そう思っていたはずでした。
それなのに、自分が本当に望んでいることから目をそらし、「負けても傷つかない自分」をつくることに力を使っていました。
この経験を振り返る中で、私の中で「負けた」という出来事の見え方が少しずつ変わっていきました。
負けたから自分には価値がない、ということではない。
同時に、傷つかないように最初から望むことを諦める必要もない。
自分は本当はどうなりたいのか。どうしたいのか。
その気持ちから目をそらさないことが大切なのだと、少しずつ認識するようになりました。
今振り返れば、あのレースは私にとって、ただの「5位だった大会」ではありません。
自分がなぜ「勝ちたい」と本気で望むことを怖がっていたのかに気づき、「負ける」という出来事の見え方が変わった経験でした。
そう考えると、経験そのものとそこから得た学びはやはり少し違います。
「できない」の意味も、変わるかもしれない
認知が変わるのは、大きな大会や劇的な失敗だけではありません。
例えば、子どもがある動きをうまくできないとします。
本人が、「自分は運動神経が悪いからできない」と思っていたとします。
しかし、練習をしていく中で、
「リズムの取り方が分かっていなかっただけかもしれない」
「一度に全部やろうとしていたから難しかったのかもしれない」
と気づく。
すると、「自分にはできない」から、「まだやり方をつかめていない」へと見え方が変わります。
起きていることは、「今はできていない」という同じ状態です。
でも、捉え方が変われば、その次にできることも変わってきます。
「できないからやめる」ではなく、「別のやり方を試してみよう」になるかもしれません。
こうした小さな認知の変化も、私は十分に学びだと思っています。
見え方が変わると、次の選択も変わる
ここまで、「学び=認知の変化」という話をしてきました。
ただし、行動が変わらなければ学びではないとまで言いたいわけではありません。
何かに気づいても、すぐには行動を変えられないこともあります。
頭では分かっていても、以前と同じことを繰り返してしまうこともある。
それも人間だと思います。
ただ、学びは認知の変化から始まり、その変化が次の判断や行動につながっていく。
私は、そんな流れで捉えています。
認知が変われば、次に試すことが変わる
例えば、「自分は後半が弱い」と考えていた競技者が、「前半で力を使いすぎていることが原因かもしれない」と考えるようになれば、次の練習で見るポイントも変わります。
「後半を強くする練習を増やそう」
「前半の力みを減らすにはどうしたらいいだろう」
「加速の仕方をもう一度見直してみよう」
といった選択肢が生まれるかもしれません。
見え方が変わる。
判断が変わる。
試すことが変わる。
すると、また新しい経験が生まれます。
これは、経験学習を体系化したDavid A. Kolbの考え方とも重なります。
Kolbの経験学習理論では、学習は「具体的経験」「省察的観察」「抽象的概念化」「能動的実験」という4つのモードを通じて進むプロセスとして整理されています。
この記事の言葉に置き換えるなら、
経験 → 振り返り → 意味づけ → 見え方が変わる → 試してみる → 新しい経験
と考えることもできます。
学びは、一度で終わるものではなく、こうした循環の中で少しずつ深まっていくのではないでしょうか。
スポーツだけの話ではない
この考え方は、スポーツに限ったものではないと思っています。
私が企業向けの人材教育に関わる中でも、「研修受講後に職場での行動がどう変わったか」を成果を見る一つの視点としてきました。
研修で、「なるほど、いい話だった」とだけ思って終わると、職場で起きることは何も変わらないかもしれません。
一方で、「今まで部下が相談に来ないのは、本人の主体性が低いからだと思っていた。でも、自分が普段から話しかけにくい雰囲気をつくっていたのかもしれない」と見え方が変わる。
すると、「明日から、こちらから少し声をかけてみよう」という行動につながるかもしれません。
ここでも、
知識を得る。
↓
自分の見え方が変わる。
↓
判断が変わる。
↓
行動が変わる。
という流れがあります。
そのため、スポーツでも、仕事でも、教育でも、「何を経験したか」だけではなく、
「その経験によって、何が見えるようになったか」
という問いには意味があるのだと思います。
経験を、「した」で終わらせない
もちろん、すべての経験を毎回分析する必要はありません。
毎日の練習が終わるたびに、何十分も振り返りを書く必要もないと思います。
人生のあらゆる出来事から、無理に教訓を探す必要もありません。
ただ、
- 強烈に悔しかった。
- 飛び上がるほど嬉しかった。
- 全くもって思い通りにならなかった。
- 予想以上にうまくいった。
- なぜか強く心に残った。
そんな経験に出会ったときは、一度立ち止まってみてもいいと思います。
何が起きたのか。
自分は、それをどう捉えているのか。
なぜ、そう捉えているのか。
以前の自分とは、何か見え方が変わっただろうか。
そして、次に同じような場面が来たら、何を選ぶだろうか。
経験は、学びの材料になります。
でも、経験したという事実だけで、自動的に学びになるわけではありません。
経験を振り返り、自分なりに意味づける。
すると、それまでとは少し違うものが見えてくる。
その認知の変化が、次の判断や行動につながっていく。
私自身、高校3年生のあのレースをただの「5位だった大会」として終わらせていたら、今とは違う捉え方をしていたかもしれません。
経験したことは変えられません。
でも、その経験から何を見るかは、後からでも変えることができます。
その経験によって、あなたの何が変わりましたか?