スマートフォンがあれば、練習中の動きを簡単に撮影できます。
一本走ったら動画を見る。
フォームを確認し、気になるところを修正して、また走る。
自分では見ることのできない動きを確認できるのですから、映像はとても便利な道具です。
では、映像は多ければ多いほどよいのでしょうか。
私は、そうは思いません。
むしろ、何を確かめたいのか分からないまま「とりあえず撮る」のであれば、撮らない方がよいことさえあると思っています。
映像は、動きを改善するための一つの手段です。
ところが使い方によっては、
走るために映像を見るのではなく、映像に残すために走る。
そんな逆転が起こるからです。
「動画用の走りになるぞ」
大学時代、練習映像について指導者から言われた言葉が、いまでも印象に残っています。
「動画用の走りになるぞ」
例えば、「次の一本、動画を撮るよ」と言われたらどうでしょう。
前に指摘されたところを直そう。きれいに走ろう。良いフォームを見せよう。
程度の差はあっても、撮影されていることを意識するかもしれません。
しかし、本当に確認したかったのは、その動きでしょうか。
試合や普段の練習で自然に出ている走りを確認したかったはずなのに、撮影を意識したことで、「動画を撮られているときの走り」を残してしまう。
だからその指導者は、映像を撮るのであれば、自然に走っている一本を残せ、という考え方をしていたように思います。
撮影そのものについて必要な了解があることは前提ですが、一本ごとに「次は撮る」と強く意識させない、ということです。
もちろん、カメラを向けられたからといって、必ず動きが変わるわけではありません。
それでも、
映像を撮ろうとした瞬間に、見たかったはずの動きを自分たちで変えていないか。
という問いは残ります。
良いフォームを「撮ること」が目的になっていないか
ここで考えている練習映像の目的は、きれいなフォームを残すことではありません。
例えば、より速く走るという目的があり、そのために自分の動きを確認する。
つまり、映像は手段です。
ところが一本ごとに映像を確認していると、いつの間にか、
「映像上で良いフォームになっているか」
が気になってくることがあります。
走る。動画を見る。気になるところを直す。また走る。
この繰り返し自体が悪いわけではありません。
ただ、実際のパフォーマンスよりも「映像できれいに見えること」を追い始めたら、目的と手段の関係は変わっています。
少し違う分野へ飛躍して考えると、ここにはGoodhart’s Law(グッドハートの法則)と似た構造があります。
Goodhartが1975年に金融政策の文脈で示したのは、観察されていた統計的な関係も、それを政策上の統制対象として扱うと崩れ得る、という考え方でした。
その後、この考え方は「指標が目標になると、その指標は良い指標ではなくなる」という趣旨で一般化されています。
もちろん、経済指標とフォーム映像は同じものではありません。
ただ、
走りを評価するために見ていたものが、いつの間にか「良く見せる対象」へ変わる。
という構造には共通するものがあります。
映像で良く見えるフォームをつくりたいのではありません。
競技で良いパフォーマンスをしたいはずです。
参考:Mattson, Bushardt & Artino「“When a Measure Becomes a Target, It Ceases to be a Good Measure”」
映像を見る前に、自分ではどう感じた?
もう一つ、映像を頻繁に見ることで気になることがあります。
それは、自分の感覚を確かめる前に、映像へ答えを求めてしまうことです。
例えば60mを一本走ったとします。
走り終わった直後には、「少し力んだ」「接地がうまくはまった」「前半で急いだ」「さっきより身体が前へ進んだ」といった感覚が、自分の中にあるはずです。
ところが、走り終わってすぐ、「動画見せてください」となると、自分ではどう感じたのかを一度も考えないまま、画面の中へ「正解」を探しにいってはいないでしょうか。
運動学習では、自分の身体や感覚から得られる情報に加えて、コーチの言葉や映像、機器などによって外部から与えられる情報をaugmented feedback(付加的フィードバック)として扱います。
こうした外部からの情報は、運動学習を助ける重要な手段です。
一方で、外部からのフィードバックをどのように受け取るかも重要です。
GuadagnoliとKohlの研究では、単純な力発揮課題において、結果のフィードバックを受け取る前に、自分の誤差を推定したかどうかによって学習結果が異なりました。
高頻度で結果を知らされた条件でも、事前に自分で誤差を推定した群は保持テストで良い成績を示し、反対に、自分で誤差を考えず毎回答えを受け取った群は最も低い成績でした。
もちろん、これは短距離走のフォーム映像を直接検証した研究ではありません。
それでも、
フィードバックを受け取る前に、自分でどうだったかを考える。
ことの意味を考えるうえでは示唆的です。
自分の感覚は、「答え」ではない
ここで誤解したくないのは、「自分の感覚を信じればいい」という話ではありません。
自分では「うまく走れた」と感じていても、映像を見ると想像とは違う動きをしていることがあります。
だから映像には価値があります。
大切なのは、感覚か、映像かの二者択一にしないことです。
まず、
「いまの一本は、前半で少し力んだ気がする」
「30mを過ぎて、身体が起きるのが早かった気がする」
と自分なりに捉えてみてから、その後に映像を見る。
すると、「自分ではこう感じた」「映像ではこう見えた」と照らし合わせることができます。
感覚と映像が一致することもあれば、ずれることもある。
そのずれ自体が、新しい情報になります。
自分の感覚を大事にするとは、感覚を正解にすることではありません。
「自分ではこう感じた」という仮説を持ち、それを外から得た情報と照らし合わせていくことです。
映像は、そのための有力な材料になります。
映像に、答えを預けない
実際、映像を使った運動学習の研究でも、映像を見るタイミングを学習者自身が選んだ方が、あらかじめ同じ頻度で映像を与えられた場合より学習を促進した例があります。
Aikenらがバスケットボールのセットシュートを用いて行った研究では、参加者自身が「映像を見たい」と選択できた群の方が、同じスケジュールで映像を与えられた群より、転移テストでフォームの評価が高くなりました。
これも短距離走にそのまま当てはめることはできません。
ただ、「映像が多いほどよい」という単純な話ではなく、「いつ映像を見るか」を学習者自身が選ぶことにも意味がある可能性を示しています。
だから私は、
映像に、答えを預けない。
という感覚を大切にしたいと思います。
映像が教えてくれることはあります。
でも、映像だけが自分の動きを知る方法ではありません。
まず自分で感じる。自分なりに考える。そのうえで必要な情報を取りにいく。
映像は「答え」ではなく、自分の感覚を確かめ、次に何を試すかを考えるための材料です。
撮るなら、「何を見るか」を決めてから
では、映像を撮るときはどうすればよいのでしょうか。
最初に決めたいのは、「何を確かめたいのか」です。
「フォームを確認したい」「動きを見たい」だけでは、少し広すぎます。
映像を見れば、腕、脚、姿勢、接地、リズムなど、いくらでも気になるところが出てきます。
気になったところを次々に修正していけば、そもそも何を確かめるために撮ったのかも分からなくなります。
例えば、
「加速局面で、上体がどのあたりから起き始めているかを確認したい」
という問いがあるなら、そのための一本を撮ればいい。
自然な走りを確認したいのであれば、毎本撮る必要はないかもしれません。
反対に、ある動きの変化を比較したいなら、条件をそろえて複数本残す意味があります。
つまり、問題なのは何本撮ったかではありません。
何のために撮ったか分からない映像を増やすこと。
そこに問題があります。
撮影したから、振り返ったわけではない。
映像を見たから、自分の動きが分かったわけでもない。
「何を知りたいのか」があることで、映像を意味のある情報として使いやすくなります。
その映像で、何を確かめたいですか?
映像はとても便利です。
自分では見えない動きを確認できる。何度でも見返せる。過去の自分とも比較できます。
だから、映像を撮らない方がいいと言いたいわけではありません。
便利だからこそ、使われるのではなく、使いたいのです。
良い映像を残すための走りになっていないか。
映像を見る前に、自分ではどう感じたのかを考えているか。
そもそも、その映像から何を知りたかったのか。
まず、走る。感じる。自分なりに考える。
そして必要なら、映像で確かめる。
映像に、答えを預けない。
その映像で、何を確かめたいですか?
